2008年7月23日 (水)

高原(たかはら)霧の里

Takahara1 近年、道路整備が整い鮎のシ-ズンともなると何度も熊野川に行くようになり何時も思うことがある。其れは、R311号の交差点栗栖川・中辺路「今は世界遺産」から日置川・近露から野中を過ぎた頃から道の濡れている事が度々ある。よくよく調べてみると県内でも有数の霧の多い所だそうで和歌山県に住んでいながら知らないことの方が多すぎる。高原・霧の里と書いて[こうげん]ではなく「たかはら」と読むそうです。そんなこんなで調べるとヤハリ霧が多く秋から冬にかけて朝霧が多く幻想的な風景が楽しめるようです。また地名でも鶏(とり)飼(か)わぬ村なぞのと言う変わった地名もあり調べてみると昔、熊野詣の山伏が日が暮れたので一夜の宿を求めた。山伏は「一番鶏が鳴いたら起こしてくれ」といい置いて休んだ。山伏の持つ金品に魔がさした宿の主人は、まだ夜も開けきらぬうちに鶏を鳴かし、(鶏は足があったまると鳴くというので、止まり木の竹の節をあらかじめ抜いておき、熱湯を流し込んだ)送り出した。途中滝の近くで手持ちの鉈で山伏を殺し、金品を奪った。今では、山伏が殺されたところは「山伏滝」、凶器を洗ったところは「薙刀淵」と呼ばれている。たたりを恐れた主人はそれ以後、鶏を飼わなくなったそうな。しかし地名とは別に、この村からの眺めも非常に感動的です。熊野古道に良く出てくる果無山河「果てし無き山と川」其れほどに熊野古道・中辺路から目にする景色が心に残るのではないでしょうか。私も熊野の歴史に少しは興味を持ち始め、先ずは一歩踏み出してみようと思う、今日この頃です。世界遺産・熊野古道は日本書紀にも登場する自然崇拝の地であり、小辺路(高野山-熊野三山、約70km) 中辺路(田辺-熊野三山) 大辺路(田辺-串本-熊野三山、約120km) 伊勢路(伊勢神宮-熊野三山、約160km) 大峯奥駈道(吉野-前鬼-熊野三山、約140km) 紀伊半島の南部にある熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉(はやたま)大社、熊野那智大社)へ詣でるのに使われてきた道を「熊野古道」と呼ぶ。熊野の地と、伊勢、大阪・和歌山、高野、吉野を結ぶ古い街道の総称だ。奈良、和歌山、三重の3県にまたがり、合計23市町村にわたって広がる。仏教、神道、修験道などさまざまな信仰が育まれてきた熊野三山とその周辺は、古くから神々がいる聖地としてあがめられ、日本人の精神文化に大きな影響を及ぼしてきた。「伊勢へ七度、熊野へ三度」と言われたように、日本人は古くから、厳しい参詣道を歩いて熊野に行く「熊野詣」(くまのもうで)を行い、癒しと再生を求めてきた。本宮大社は未来のご利益を願い、速玉大社は過去の業を落とし、那智大社は現在の業を落とすものとして、今でも多くの人が参詣に訪れる。
熊野古道は、2004年7月にユネスコ(国際連合教育科学文化機関:UNESCO)の世界遺産として登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部だ。世界遺産に登録された理由は、神道と神仏習合の霊場である熊野三山と、真言密教の霊場である「高野山」、そこに至る熊野古道などの参詣道がまとまりを持って、信仰を育んだ自然と人間の営みが一体となった文化的景観を構成しているためだ。熊野古道は、1) 京都方面からの参詣のために最も頻繁に使われた「中辺路」、2) 高野山との間を結ぶ「小辺路」、3) 紀伊半島の南部の海沿いを行く「大辺路」、4) 伊勢神宮との間を結ぶ「伊勢路」、5) 「大峯奥駈道」(おおみねおくがけみち)などから成る。熊野灘に面した海岸線や紀伊山地など、豊かな自然環境に恵まれている。また、文化財保護法に基づき、史跡7件、史跡・名勝1件、名勝1件、名勝・天然記念物1件、天然記念物4件が指定され、国宝4件、重要文化財23件の建造物を含む。 詳しくは・・・紀伊山地の霊場と参詣道

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2008年6月15日 (日)

初期は難しい・・・

20080608h40 club今年の有田川解禁から、そろそろ20日が経とうとしている。待ちに待った解禁だったが前日の局地的豪雨によりダムの放水が始まり楽しみにしていた解禁が台無しになってしまった。 5月20前後に行った特別採補の結果では今年の解禁日は沢山の方に楽しんで頂けるだろうと確信していたが・・・何とも自然の悪戯には逆らえない。その後、水況・天候ともに不安定で、まともに本流で思い存分鮎釣を楽しめない状況が続いている。また、ようやく天気が続いても濁りが続き何とか入れるまで回復したと思っても水温が上がらず、光合成も悪くせっかく付き始めた芯垢も腐り始める始末では鮎もたまったものではない。しかし、自然界に生きる鮎たちは強い。人間なら腐った物など口にもしないが、腐った苔でも鮎は食べている。私が見ただけでも不味いだろうと思う苔でも食んでいるのだ。日々川に入り苔の食み跡を見る度に・・・頑張っている鮎に頭が下がる思いである。そして、近年厄介な冷水病もそうだが・・・鮎も好き好んで罹っている訳ではない。本来 我が国に無かったものを人間が持ち込んだのだ。自然を破壊するのも護るのも人間だが、其れを人事のように、やれ病気が出てるだの、鮎が流れているだのと五択を言う奴にはウンザリする。鮎が頑張って生きようとしているのだから、もう少し大事に思う心は無いのだろうか???

少し20080609b40話が脱線したようにも思うが・・・

今年も天候が安定しないように思える。 年によって開きもあるが6月にも入れば もう少し暑い日が多いように記憶するが今年は比較的過ごしやすい入梅だった。解禁前には完全に石に付いていた鮎も水温が低くなれば石から離れる習性があり極端に活性が落ちる。したがって、どの様な状況にはどんな釣り方をすれば良いか?? 針をどの様にセットすれば良いか??どの様なポイントを選べば良いかなど・・・考えれば気が遠くなる。しかし、其れを考えなければ今のような難しい時には鮎は掛からない。オトリ鮎を送り出しても見向きもしてくれないのだ。瀬で引けば良いのか??止めれば良いのか??トロで泳がせば追って来るのかとか・・・しかし、試行錯誤の中で何かの光が見えるのです。その僅かなヒントの光に気づくかで、後々の釣り方の引き出しが多くなり釣り型の幅が広くなるのだと思う。皆が釣れる時などは普通にオトリを出していても掛かる時は掛かる。しかし平水で濁りが無くても、今の状態のような川ではホントに難しい。釣り型の引き出しが多く有っても難しい。私は今年で10年目で、普通の鮎釣を楽しむ方に比べると比較できないほど川に入っているがホントに思うように鮎釣が出来ない。人はよくそれだけ釣りますねと言ってくれるが・・・本人は全く納得できていないのです。毎日川に入るから偶々今は何処が釣れるのだろうと感じるだけであって、釣としての技術がとも伴わないのだ。鮎師は、川で泣け、川で育め、川で何度泣いたかで鮎師の器が決まると言うような言葉が、どこかのオトリ屋の壁に書いてあるが其のとおりだと思う。鮎釣なんて夏の風物詩。夏になれば釣れるようになる。暑くなればその内に釣れるだろう。。。そう思って気がつくと夏は終わってしまってる。こんなに解禁を待って待って待っても、気がつけば夏は過ぎ去ってしまう。ほんとに鮎師の夏は早すぎるのだ。。。rain

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2008年5月 4日 (日)

ミカンの歴史・・・

永い歴史のある有田みかんについては色々な紹介本が世に出ている。しかし、田道間守が橘本神社に植えた蜜柑の始めとする「トキジクノカグノコノミ」についてはあまり書かれていないが橘本神社元宮司の前山虎之助氏が自著で田道間守についての柑橘論を発表している。それによると、後述する有田郡糸我の蜜柑「橘」は加茂橋本から移植したものであり、田道間守の植えた橘は自生の橘と種類が違う「九年母温州蜜柑」のようなもので、橘本地区を中心に近郷の村々にも栽培されていた。紀州蜜柑の元祖の地は加茂村の橘本であると述べている。田道間守の物語は西暦1世紀頃の話である。その後の和歌山の蜜柑についての記録は有田市の「糸我社由緒書」に永享年間(1429~1440年)に「有田郡糸我庄中番村に1本の自生の橘あり」という記録まで1400年近く空白である。しかし、この間、日本の柑橘史では、時代とともに中国大陸から幾種かの柑橘が伝来している。8世紀初めには唐の国からコウジ(柑子)(続日本紀)、鎌倉・室町時代に入るとクネンボ(九年母)、小ミカン、キンカン等である。さて、紀州蜜柑こと有田蜜柑の起源については2説ある。有田における「自生説」と「肥後八代からの移植説」のようですが・・・其のミカンの花が、今が開花盛んでミツバチが盛んにミカンの花の蜜を集めていて、今週末辺りの有田地方は甘酸っぱい香りが一面に漂います。20080504a40

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2008年4月29日 (火)

熊野古道

Toganoki_2 熊野古道とは、主に以下の5つの道を指す。多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に紀伊山地の霊場と詣参道としてユネスコの世界遺産にとして登録されましたが、しかし紀伊路だけは登録されなかったのが残念です。 小辺路(高野山-熊野三山、約70km)中辺路 (田辺-熊野三山)大辺路 (田辺-串本-熊野三山、約120km) 伊勢路伊勢神宮-熊野三山、約160km) 大峯奥駈道(吉野-前鬼-熊野三山、約140km) となり、紀伊半島は、日本でも有数の降雨量の多い地域であり。このため、所々に石畳で舗装された道跡が残っている。

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2008年4月17日 (木)

日本料理史・刺し身

「さかな」という言葉は、もともと「酒菜」と書きました。酒菜は酒と共に食べるおかずの事で、奈良時代には魚でも野菜でも、副食物を全て「ナ」と呼んでいたようです。その中で特に上等なものをサカナというようになり、更に進むと「ほんとうのおかず」という意味から「真菜(マナ)」とも呼ぶようになり、俎板(マナイタ)はその名残と言われています。
次に、奈良時代から平安時代にかけては、商業や交通網が未発達だったため、海岸から遠く離れた都で海産の鮮魚を口にすることは稀で、ほとんどが塩漬けや干魚として食べられていました。京都の名物料理に「いもぼう(いもと棒ダラ)」や「ニシンそば」など、干魚料理があるのも、その当時の名残なのでしようね。??
また、鎌倉時代の書籍『家中竹馬記』には食品のランク付けがあり、「魚が一番、鳥はその次。魚の中でも川魚が上、海の魚は下。魚の中ではコイが一番。スズキがこれに次ぐ」となっていて・・・ 当時の鮮魚は、川や琵琶湖の淡水魚に限られていたため、淡水魚の方が尊ばれていました。こんにちも残る包丁式でコイが用いられることが多いのは、当時の人のこうした考え方が背景にあるのでしょうか・・・??
さしみが本に出てくるのは、室町時代の文安年間(1444~49)の頃ですが、それ以前は、なますやなれずし、あえものなどの調理法があり、さしみに準ずるものも食べていたようで、鎌倉時代の武士は質素な生活をしていましたが、商業と流通が活発になってきた室町時代になると、海の鮮魚も手に入るようになり、醤油の原型の醤(ヒシオ)のタレを付けて、生魚を食べるようになりました。
また、この時代に山葵も食用に用いられるようになったようです。古くは奈良時代の文献にも書かれているようだが、このような辛いものが刺し身に合うと考えたのも不思議です。切り身なのに「さしみ」という語源は、鎌倉・室町などの武家社会で「切る」という言葉を嫌ったためで、関西で「お造り」というのも同じ理由といわれます。他にも、切り身に何という魚なのか解るような工夫もされていたようだが実際のところははっきりとした説は分かっていないようですね・・・

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2008年4月 8日 (火)

人生とは??

人生で言葉を捜すと数知れず。しかし、其れは一人一人の育ち・生い立ち・生き方・価値観・考え方他・・・皆違うからだろうと思うが・・・一体、人の人生観とは何なんだろう??

・わたしの人生をわたしはコーヒースプーンで測ってきた。 byエリオット   ・黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ。 by鄧小平   ・私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。 by岡本太郎   ・登山の目標は山頂と決まっている。しかし、人生の面白さはその山頂にはなく、かえって逆境の、山の中腹にある。 by吉川英治   ・人生は、必ずしも思うようになるとは限らない。 ・人生に執着する理由がない者ほど、人生にしがみつく。 byエラスムス   ・人生とは、二気筒のエンジンで440馬力を出すことだ。 byヘンリー・ミラー   ・人生はそれを感ずる人間にとっては悲劇であり、考える人間にとっては喜劇である。 byラ・ブリュイエール   ・世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ。 byシェークスピア   ・涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない。 byゲーテ   ・人生は学校である。そこでは幸福より不幸の方が良い教師である。 byフリーチェ   ・智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。 by夏目漱石   ・この道より、われを生かす道なし。この道を歩く。 by武者小路実篤   ・自分が立っている所を深く掘れ。そこからきっと泉が湧きでる。 by高山樗牛   ・人生は己を探す旅である。 by藤本義一   ・人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。しかし重大に扱わなければ危険である。 by芥川龍之介   ・人生には、全てをなくしても、それに値するような何かがあるんじゃないだろうか。 ・人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しだ。 by中村天風   ・一度だけの人生だ。だから今この時だけを考えろ。過去は及ばず、未来は知れず。死んでからのことは宗教にまかせろ。 by中村天風   ・人生は、私たちが人生とは何かを知る前にもう半分過ぎている。 byW・E・ヘンリー   ・宴会と同じように、人生からも飲みすぎもせず、喉が乾きもしないうちに立ち去ることが一番良い。 byアリストテレス   ・なんと大洋の美しいことよ!なんと大空の澄んでいることか!点のような太陽!何事が起ころうと、この瞬間、生きていることでたくさんだ。 byリンドバーグ   ・10歳にして菓子に動かされ、20歳にしては恋人に、30歳にして快楽に、40歳にしては野心に、50歳にしては貪欲に動かされる。いつになったら人間はただ知性のみを追って進むようになるのであろうか。 byゲーテ   ・生きるべきか死ぬべきか。それが疑問だ。 byシェークスピア   ・人の一生は曲がり角だらけだ。 by山本周五郎   ・人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。 by中島敦   ・人生にはただ三つの事件しかない。生まれること、生きること、死ぬことである。生まれるときは気がつかない。死ぬときは苦しむ。そして生きているときは忘れている。 byラ・ブリュイエール   ・人はその生涯の40年間で本文を著述し、これにつづく30年間において、前者についての注釈を付加する。 byショーペンハウエル   ・人生において、万巻の書をよむより、優れた人物に一人でも多く会うほうがどれだけ勉強になるか。 by小泉信三   ・馬で行くことも、車で行くことも、二人で行くことも、三人で行くこともできる。だが、最後の一歩は自分ひとりで歩かなければならない。 byヘルマン・ヘッセ   ・人生の半分はトラブルで、あとの半分はそれを乗り越えるためにある。 by映画『八月の鯨』   ・人生は、ケチな心配事ばかりしているのには短すぎる。 byC・キングスリー   ・われわれの人生は織り糸で織られているが、良い糸も悪い糸も混じっている。 byシェークスピア   ・今今と今という間に今ぞ無く 今という間に今ぞ過ぎ行く by道歌   ・状況?何が状況だ。俺が状況をつくるのだ。 byナポレオン   ・たとえ今日負けても、人生は続くのさ。 byメチージュ(米・テニスプレーヤー)   ・問題なのは人生ではなく、人生に対する勇気だ。 byサー・ヒュー・ウォルポール   ・人生のバッターボックスに立ったら、見送りの三振だけはするなよ。 by小林茂   ・傷ついたのは、生きたからである。 by高見順   ・人生は全て次の二つから成り立っている。したいけど、できない。 できるけど、したくない。 byゲーテ   ・われわれは現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから。 byアラン   ・とにかくね、生きているのだからインチキをやっているのに違いないのさ。 by太宰治   ・人生とは、切符を買って軌道の上を走る車に乗る人には分からないものである。 byサモセット・モーム   ・貧しくとも、君の生活を愛したまえ byソロー   ・乗りかけた船には、ためらわず乗ってしまえ。 byツルゲーネフ   ・人生はマラソンなんだから、百メートルで一等をもらったってしょうがない。 by石坂泰三   ・深海にいきる魚のように自ら燃えなければどこにも光はない。 by明石海人  

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2008年3月26日 (水)

砂糖の歴史

最も古い仏教典に、砂糖は薬のひとつとして紹介されていて、昔から身体への効果が認識されていたことがうかがわれる。
その後、インドの砂糖やサトウキビは、アラビア人によって西はペルシャやエジプトに、東は中国へと伝えられていき、日本には今から約1200年前の奈良時代、中国の僧、鑑真和上によって伝えられたという。当時の砂糖は貴重な薬として奈良の大仏にささげられたと言う説もあり、それから時を経て、砂糖を使ったお菓子が将軍たちの嗜好品としてもてはやされていきます。ヨウカン好きの足利義正に、コンペイ糖に目がなかった織田信長の逸話は有名です。日本で本格的に砂糖づくりがはじまったのは、江戸時代。徳川8代将軍・吉宗が琉球(沖縄)からサトウキビをとりよせ、江戸城内で試験的に栽培をはじめてから料理にも一層甘さが加わり美味しくなったとされています。また、和菓子の甘さも、この当時から技術が向上したとか???

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2008年3月25日 (火)

日本料理の歴史。

日本料理の歴史は、奈良時代・天武天皇の時に肉食禁止令・殺生禁止令が行われた事柄から考えてみると平安時代からの始まりだと推測する。其れは包丁作法に順ずる事から推測できるのではないだろうか・・・現在でも四条流と言う包丁式が存在するゆえで平安時代、四条城で行われたのではないかと言う説があるからです。その後、鎌倉時代には質実剛健の事から、寺の料理で道元禅師が精進料理を確立し、また武家料理も(三食主義)も確立された。室町時代に本膳料理。安土桃山時代には千の利休が茶懐石を確立。江戸時代・前期には鎖国もあり魚と野菜の料理が主のようでした。そして江戸時代後期に会席料理という形が確立されたようです。

本膳料理は日本料理の基本であり、会席料理の元祖といわれています。宮中で、あるいは冠婚葬祭など、ひとつの儀式として供えられます。そのため、礼式を重んじた非常に厳しい料理作法が定められています。現在でも、皇室の結婚式などのように、各界の代表を招待して行なわれる婚儀の宴は、まさしく本膳料理の流れを汲んで行なわれます。
本膳、二の膳、三の膳というように3つの膳と、7種(5種、3種の場合もある)の料理が配膳されます。さらに、与の膳と五の膳が加わります。(四は死につながるので、与の膳と呼んでいる) 合計3汁11菜で成り立っています。

会席料理とは、日本の代表的な饗宴料理であり、宴席で出される料理の総称をいいます。したがって、本膳料理や精進料理のように、料理の形式や内容を指すものではなく・・・会席料理には、本膳形式と茶懐石の流れを汲むものがあります。いずれも酒を楽しく飲むための料理として発展してきました。一品ずつ、できたての料理を配膳する喰切(くいきり)料理となっているのが特徴です。また、懐石とは、茶事や茶会の席で出す料理をいいます。元来は、「会席」の文字が使われてしましたが、江戸時代の半ば頃から「懐石」の字が当てられるようになりました。
 そもそも懐石とは、昔、禅宗の修行僧が、朝昼の2食しか食べなかったため、夜になると、空腹と寒さをしのぐために、温石(おんじゅく)を懐に入れていたことに因んでいます。
 茶会で、濃茶をおいしくいただくためには、あまり空腹ではいけないので、軽い食事(質素であり合わせの空腹をしのぐ程度の粗食)をとることになっています。
 箸の割り方、ご飯の食べ方、椀の持ち方に始まって、客同士の食べる順番、客と主人とのやりとり等、食事作法にいろいろ取り決めがあります。

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2008年3月23日 (日)

五味・五色・五法

本日は、日本料理の事について少し書いてみる。
若くして料理人を志し修行していた頃によく耳にしたことで、最近は余り聞かなくなったのか、言わなくなったのか、忘れられたのか定かではないが・・・
日本料理には、定式が有り五味五色五法というものがあります。
「五味」とは、甘、酸、辛、苦、それに鹹(かん)、鹹とは塩辛いこと。
「五色」とは、白、黄、赤、青、黒のこと。黒には濃い紫を含む。
「五法」とは生、煮る、焼く、揚げる、蒸すという調理法を指す。
生は生の食感を指し、世界の中でもこれほど複雑な定式があるのは
日本料理だけではないかと思う。
特に四季の素材の持ち味を生かしながら、味、香り、色を大事にし、春夏秋冬の季節感をも重視し、材料に気を配る日本料理は、「旬(しゅん)」を大切にし、どの料理にも、その季節の香りが入っています。季節を無視した献立は、日本料理とは認められないと言われるくらいです。時期的には、「はしり」「旬」「名残」のものがあります。「旬」とは、ものの味がもっとも美味しい時期のことを言います。とくに、「はしり」とは、市場で出回ったばかりのもの、「名残」は文字通りです。
 会席料理では、旬のものと同様に、はしりのものを使うことがあります。一方、懐石料理の方では、はしりのものを素材として使うことはほとんどありません。
さらに、料理を盛り付ける器も、料理によって或いは季節によって、色、形、材質について配慮し、文章の構成で使われる言葉で起承転結も日本料理に良く使われる言葉です。料理には物語があるという事も書き加えておきたいと思います。元々、五味五色五法は中国の陰陽五行や薬食同源の考え方を源流に、日本に伝わり、独自にアレンジされたもので、器用で工夫にたけた日本文化の中で一層磨かれたものが現在の日本料理ではないかと思います。
画像は、私の友人が料理長をしているのでお借りしました。Yachiyo

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2008年3月16日 (日)

寝台急行

先日のダイヤ改正で寝台特急「銀河」(東京―大阪)、他いくつかの列車の姿が消えた。私の子供の頃に走っていたのは蒸気機関車で、発車する時にはガタン・ガタンと車両の連結部の音がした。駅で乗り遅れそうでもデッキに飛び乗れる程ゆっくりした出足でした。その当時の紀勢本線には特急なく、急行・準急・普通の三種類だったと記憶している。其の後、昭和55年万博の年に大阪に出た時に駅で見た列車の多さにビックリしたのは今でも鮮明に覚えている。職人という職業柄、地方に仕事に出る事も多く、当時から寝台特急に乗ることもあり、その頃の事が今でも懐かしい。しかし、時代の流れには逆らいなのだろう。寝台特急の姿が年々少なくなってきた。今は、人の暮らしも時間に追われる時代で、何処に行くのも早くなければならないと言うか時間にゆとりが無さ過ぎるように思う。社会全体に時間の余裕がないのだろうか?? しかし、こんな時こそ時間にゆとりを持ちたいものだ。昔は、「友達と旅した時代や、恋人と旅行した時代、家族と旅行をした時代」を思い出し、たまにはのんびりと寝台特急で旅をしたいものですね。。。

参考資料・画像は、JR西日本オフィシャルサイトより・・・JR九州所有の14系で運転している、東京と九州を結ぶ寝台特急です。平成11年12月より併結運転を行っていた「さくら・はやぶさ」のうち、長崎発着の「さくら」が廃止となり、平成17年3月から大分発着の「富士」と併結運転しています。「はやぶさ」は鹿児島線経由で、「富士」も日豊線経由でそれぞれ西鹿児島まで運転していましたが、現在はそれぞれ東京~熊本間・東京~大分間の運転となっています。http://www.jr-odekake.net/train/Top 

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